(92)我が袖は 潮干に見えぬ 沖の石の

百人一首92番歌


我が袖は
潮干に(しほひに)見えぬ
沖の石の
人こそ知らね
乾く間もなし


「千載集」恋2-760
「石に寄せる恋といへる心をよめる」


by 二条院讃岐
二条天皇に仕えた女房
1141~1217頃
源三位頼政の娘



私の袖は干潮の時も見えない沖の石のように、人は知らないでしょうが泣き濡れて乾くひまもありません。



「石に寄せる恋」という難しい題に「沖の石」を取り合わせた讃岐の歌によって
「沖の石」は宮城県多賀城市福井県若狭の二つの歌枕となりました。

後に「沖の石の讃岐」とあだ名がついたということです。



二条院讃岐の父・源三位頼政は、源氏の一門で、保元の乱平治の乱で勝利しますが、平氏全盛の時代にあって出世は遅く、75歳になってやっと従三位になりました。


歌集に「源三位頼政集」がありますが、晩年は官位への不満をもらす歌が多いそうです。


1180年、源頼政は、以仁王を奉じて決起しましたが敗れて宇治の平等院で敗死しました。

頼政の辞世の句』
埋もれ木の
花咲くことも
なかりしに
身のなる果てぞ
悲しかりける

平家物語」巻4に、以仁王源頼政の逸話が書かれています。



源頼政の娘・二条院讃岐は、保元の乱平治の乱崇徳院の憤死、父の敗死、洛中の大火、大飢饉、大地震、と荒れた時代に生きながら、
女流歌人として、式子内親王、俊成娘、等々と共に歌を詠みました。

勅撰集にも入集し、家集に「二条院讃岐集」があります。


頼政以仁王と共に挙兵し敗れましたが、以仁王の令旨を受けて立ち上がった源氏により、平氏は滅ぶことになります。
頼政は、摂津源氏源頼光の子孫です。


二条院讃岐が仕えた二条天皇は「平家物語」では、亡き近衛天皇の后・藤原多子を独断で入内させた(2代の后)と書かれていますが、Wikipediaでは二条天皇の立場を固めるための政略的婚姻と推測されるとしています。

1165年、讃岐が仕えた二条天皇は病に倒れ、2歳の六条天皇に譲位すると間もなく23歳で崩御しました。