百人一首メモノート

ネットや本で勉強したノートです。

百人一首 富士の高嶺に

番外メモ

田辺聖子さんの「古典まんだら」を読んでいたら、山部赤人について書かれてたので百人一首4番歌に追記しました。


「古典まんだら」万葉集のページより

山部赤人の玲瓏たる気高い歌を読みますと、これこそが日本人の象徴なのだと感じます。
気高く、情け深く、優しく、そしてりりしい、日本人の心はこれからもそういうものであってほしい、22世紀になっても、そうあってほしいと思います。〉


22世紀は、2101年から始まりますから
生きてませんし想像もできませんが、
田辺聖子さんは、22世紀を展望して書かれています。


そこで、22世紀で検索したら、トヨタの「Woven City」
コネクティッド・シティ「ウーブン・シティ」を見つけました。


初期は、富士の裾野に
トヨタの従業員やプロジェクトの関係者をはじめ、2000名程度の住民が暮らすことを想定しているそうです。


参画希望者向けウェブサイト(英語)があり、まだ参画希望できるようです。


山部赤人万葉集の歌は

田子の浦
うち出て見れば
真白にそ
不尽の高嶺に
雪は降りける


13世紀前半に成立した百人一首では

田子の浦
うち出てみれば
白妙の
富士の高嶺に
雪は降りつつ

と、少し変えられて入集されています。


気高い日本人の心は、22世紀はどうなっているのでしょうね。

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番外メモ 皇族の歌

百人一首に入っている皇族の歌
男性 8首
女性 2首(持統天皇式子内親王


1番歌 天智天皇 第38代天皇


2番歌 持統天皇 第41代天皇


13番歌 陽成院 第57代天皇


15番歌 光孝天皇 第58代天皇


20番歌 元良親王 陽成天皇の第1皇子


68番歌 三条院 第67代天皇


77番歌 崇徳院 第75代天皇


89番歌 式子内親王 後白河天皇の第3皇女


99番歌 後鳥羽院 第82代天皇


100番歌 順徳院 第84代天皇


それぞれの歌

☆1番歌 天智天皇

秋の田の 刈り穂の庵の とまをあらみ
我が衣手は 露に濡れつつ


☆2番歌 持統天皇

春過ぎて 夏来にけらし 白妙の
衣ほすてふ 天の香具山


☆13番歌 陽成院

筑波ねの 峯より落つる みなの川
恋ぞつもりて 淵となりぬる


☆15番歌 光孝天皇

君がため 春の野に出でて 若菜つむ
わが衣手に 雪は降りつつ


☆20番歌 元良親王

侘びぬれば 今はた同じ 難波なる
みをつくしても 逢はむとぞ思ふ


☆68番歌 三条院

心にも あらで憂き世に ながらへば
恋しかるべき 夜半の月かな


☆77番歌 崇徳院

瀬を早み 岩にせかるる 滝川の
われても末に 逢はむとぞ思ふ


☆89番歌 式子内親王

玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば
忍ぶることの 弱りもぞする


☆99番歌 後鳥羽院

人もをし 人もうらめし あぢきなく
世を思ふ故に もの思ふ身は


☆100番歌 順徳院

ももしきや 古き軒端の しのぶにも
なほあまりある 昔なりけり

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番外メモ 勅撰和歌集

百人一首は、21ある勅撰和歌集の中の、10の和歌集から撰ばれています。


藤原定家が撰者のひとりとなった勅撰和歌集
新古今集」からは、14首
「新勅撰集」からは、4首が、百人一首に採られています。


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勅撰和歌集二十一代集*

1 古今和歌集百人一首に 24首入ってます
2 後撰和歌集 ~ 7首
3 拾遺和歌集 ~ 11首
4 後拾遺和歌集 ~ 14首
5 金葉和歌集 ~5首
6 詞花和歌集 ~ 5首
7 千載和歌集 ~ 14首
8 新古今和歌集 ~ 14首

古今集から新古今集までの勅撰和歌集(1~8)が「八代集

以降の勅撰和歌集(9~21)は「十三代集」と呼ばれます。

9 新勅撰和歌集百人一首に4首
10 新後撰和歌集百人一首に2首

11 続古今集
12 続拾遺集
13 新続撰集
14 玉葉
15 続千載集
16 続後拾遺集
17 風雅集
18 新千載集
19 新拾遺集
20 新後拾遺集
21 新続古今集
(22) 新葉和歌集(準勅撰集)


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(100)ももしきや 古き軒端の しのぶにも

百人一首100番歌

ももしきや
古き軒端(のきば)の
しのぶにも
なほあまりある
昔なりけり


「続後撰集」雑下1205

by 順徳院
1197~1242
第84代天皇
後鳥羽天皇の第3皇子
母は平教子(平清盛の姪)
承久の乱後、佐渡に配流された


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ももしき=百磯城=宮中


宮中の古い軒端に茂るしのぶ草を見るにつけて、かつての盛時がしのばれる
あまりある思いは尽きない
懐かしい昔のことである


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1192年に鎌倉幕府が成立した後の
1197年、順徳院が誕生しました。


父・後鳥羽院
穏やかな兄・土御門帝(第1皇子)を16歳で譲位させて
文武に秀でた弟・順徳帝(第3皇子)を14歳で即位させました。


順徳天皇は、藤原定家に師事し、頻繁に歌合、歌会を主催しました。

100番歌は、順徳天皇が20歳の時に詠んだ歌です。


順徳天皇は、歌論書「八雲御抄(やくもみしょう)」を著し、承久の乱後、佐渡に流されてからも加筆修正し、藤原定家に送っています。


「八雲御抄」は、6部6巻からなる大書で、後世の歌学に大きな影響を与えました。


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後鳥羽院順徳天皇は討幕を企て、
1221年、順徳天皇は子・仲恭天皇(4歳)に譲位して、父と共に承久の乱を起こしました。


承久の乱で敗戦し、後鳥羽院隠岐へ、順徳院は佐渡へ流されました。


土御門院はこの乱に無関係で、幕府の咎めもありませんでしたが、父と弟が流され、ひとり都で安閑と暮らすわけにはいかないと、みずから土佐へ移りました。

(土御門院は、1231年、37歳で崩御


幕府は、即位して80日足らずの仲恭天皇を廃位とし、後鳥羽院の直系子孫を除外して傍系の後堀河天皇を即位させました。

仲恭天皇は、1234年、17歳で崩御


後堀河天皇は10歳だったため、父親の守貞親王上皇後高倉上皇となり院政を執りました。

後高倉院は、1223年に崩御


1232年、後堀河天皇は、四条天皇(2歳)に譲位し後堀河院となりました。

(1234年、後堀河院は、23歳で崩御

(1239年、隠岐後鳥羽院が60歳で崩御

(1241年、藤原定家が80歳で逝去)


1242年、2月、不慮の事故により、四条天皇が12歳で崩御しました。


皇統が途絶え、11日間の空位期間の後、
次代の天皇には、
後鳥羽院の血統から、後嵯峨天皇が撰ばれて即位しました。


1242年、9月
順徳院は、21年間過ごした配流地で46歳で崩御しました。

断食により自ら命を絶ったと伝わっています。


順徳院の辞世の句は、

思いきや
雲の上をば
余所に見て
真野の入り江にて
朽ち果てむとは


順徳院の御陵は、京都大原三千院の裏手、父・後鳥羽院の大原陵に合祀されているそうです。


百人一首メモノート終わりです。
平安時代の歴史の勉強になりました。
和歌の素晴らしさと、最期の順徳院の歌、貴族 VS 武士、で終わったのが印象に残りました。

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(99)人もをし 人もうらめし あぢきなく

百人一首99番歌

人もをし
人もうらめし
あぢきなく
世を思ふゆゑに
もの思ふ身は


「続後撰集」雑1199

by 後鳥羽院
1180~1239
高倉天皇の第4皇子
新古今集」を編纂


人は、あるときは愛おしく
また、あるときは恨めしく思われる。
あじけない世を思うためにあれこれ思い煩う私にとっては。


をし=愛し


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1180年
以仁王が挙兵、敗死した年、
後鳥羽院は、高倉天皇の第4皇子(安徳天皇の異母弟)として誕生しました。


1183年
平家が木曽義仲に追われて6歳の安徳天皇を奉じて西海に逃げたあと、祖父の後白河法皇の命で神器なしで後鳥羽天皇が4歳で即位し、2年間、2人の天皇が在位しました。


1185年 壇ノ浦で平家滅亡


1192年
後白河法皇崩御
後鳥羽天皇源実朝征夷大将軍に任命し、鎌倉幕府が成立しました。


1198年
後鳥羽天皇土御門天皇に譲位して院政開始(19歳)

土御門帝・順徳帝(土御門帝の弟)・仲恭帝(順徳帝の子)の3天皇の時代、承久の乱まで23年間院政を執りました。


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33歳の時、百人一首99番歌となる歌を詠みました。

定家ほか4人の歌人に20首ずつ和歌を詠ませ、自身も20首を詠んで百首とし
その中の「述懐」という題で詠んだ5首の中の1首が99番歌。


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後鳥羽院は、多種多芸、文武両道にすぐれ、自ら刀を作り、旅行を好み、「わがふるさと」と水無瀬(大阪府北東部)に離宮を造営し足繁く通いました。
今、その地は水無瀬神宮となりました。


1205年
後鳥羽院が撰進を命じた「新古今集」が成立しますが、この後も編纂は続きました。

後鳥羽院
「和歌は世を治め、民をやはらぐる道である」と説いたそうです。

新古今集」に後鳥羽院の歌は沢山入集しています。

見渡せば
山もとかすむ
水無瀬川
夕べは秋と
なに思ひける

by 後鳥羽院


1219年
源実朝が暗殺され、後鳥羽院はこの頃から北条氏の執権幕府、鎌倉幕府討幕を計画します。


1220年
藤原定家が、内裏歌会で後鳥羽院の勅勘を受け、公の出席・出詠を禁じられました。


1221年
承久の乱で敗れて隠岐島に配流されました。

後鳥羽院は、隠岐で「新古今集」を手入れしたり、都と手紙による歌合をしたり、仏への信仰と和歌を詠む日々を過ごしました。


1239年
配流されてから18年後、60歳で隠岐崩御されました。


後鳥羽院は、刀剣作りを続け、自らの印として刀に16葉の菊紋を彫り込み、それが今でも天皇家の家紋「菊のご紋」として使われ続けています。


後鳥羽院をお慰めするために島の人々が始めた「牛突き」といわれる闘牛は、今でも隠岐島で伝承されています。

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