百人一首メモノート

ネットや本で勉強したノートです。

番外メモ 冷泉家

番外メモ 冷泉家

百人一首の選者、藤原定家の子孫は、今は上冷泉家と下冷泉家に継がれています。

冷泉家は、歌道宗匠家として
冷泉流歌道や宮廷生活の伝統的諸行事を今も伝承しています。


1981年(昭和56年)
冷泉家冷泉布美子さん(1916~2011)(上冷泉家第22代当主の四女)の夫・為任さんが当主の時、財団法人冷泉家時雨亭文庫が設立されました。

藤原定家の日記「明月記」など、冷泉家に伝えられる貴重な資料が公開され、研究されています。

24代当主は、冷泉為任さん(婿養子、妻は布美子さん)

現在の25代当主は、冷泉為人さん(婿養子、妻は貴実子さん)

京都の 冷泉家は、邸宅売却危機にみまわれましたが、冷泉家時雨亭文庫の設立により、貴重な文化遺産の散逸を免れました。


冷泉家では、歌会始は1月に行うようですが、七夕の夜の「乞巧奠」をはじめ、桃の節句端午の節句など、すべて旧暦で執り行っているそうです。


2019年2月の雑誌(女性自身)の記事の中で、冷泉貴美子さんは
「800年、先祖が守り抜いた日本の文化を、この先また800年、伝えていきたい、そう思うています」
と仰ってます。


京都御所同志社大学のキャンパスに挟まれた冷泉家住宅・公家屋敷には8棟の蔵がありましたが、古くなって崩れたり、2019年に台風により施設が破損され貴重な資料が雨にさらされたりしました。
2020年現在、蔵の建設計画が模索されています。


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冷泉家からの分家の一つ、入江家の入江相政さん(昭和天皇のはとこ)は、1934年(昭和9年)に宮内省侍従職侍従となり、昭和天皇侍従長を務めました。

1990年初版の「入江相政日記」(いりえすけまさにっき)は、1935年から、1985年9月に死去する前日までほぼ毎日記した日記です。
(いつか読んでみたいです)

冷泉家の方々や入江相政治さんも、百人一首第1首の天智天皇の側近だった藤原鎌足の子孫・定家に繋がっているのですね。


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(43)逢ひ見ての 後の心に くらぶれば

百人一首43番歌

逢ひ見ての
後(のち)の心に
くらぶれば
昔は物を
思はざりけり

拾遺集」恋2-710

by 権中納言敦忠(藤原敦忠
906~943
左大臣藤原時平の三男
母は在原業平の孫
36歌仙の一人


お逢いして契りを結んだ後のこの恋しい心に比べれば、契りを結ぶ前の物思いなど大したものではありませんでした。


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恋しい想いが伝わってくる歌ですね。

敦忠は、和歌や琵琶の名手だったそうです。
恋多き人で、38番歌作者の右近とも恋愛関係にあったそうです。

この歌を贈った相手は、醍醐天皇の皇女雅子内親王、右近、藤原貴子と、色々な説があるようです。

敦忠の妻は、
北の方(藤原玄上の娘)
源等(39番歌作者)の娘
明子(藤原仲平の娘)

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敦忠は、坂本の里に、
音羽川(おとわがわ)から水を引き入れた別荘を所持していたそうです。

別荘に伊勢、中務らを招いて歌宴を開くなど華やかな暮らしぶりでしたが、38歳の若さで亡くなりました。

父の左大臣藤原時平も39歳の若さで亡くなりましたが、菅原道真の怨霊といわれ、父亡き後、時平の弟・忠平が藤原北家氏長者になり政治の実権を握りました。


敦忠が別荘を構えた頃、坂本には既に日吉大社比叡山延暦寺があったそうです。

音羽川は、比叡山から流れ出ています。


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(42)契りきな かたみに袖を 絞りつつ

百人一首42番歌

契(ちぎ)りきな
かたみに袖を
絞りつつ
末の松山
浪(なみ)越さじとは

「後拾遺集」恋4-770

by 清原元輔
908~990
清少納言の父
36番歌・深養父(ふかやぶ)の孫
36歌仙の一人
後撰集」撰者の一人


約束しましたよね、涙に濡れた袖を絞り合いながら、あの末の松山を波が越すことなどあり得ないように、心が変わることはないと。

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「末の松山」は、陸奥の歌枕です。
陸奥=福島、宮城、岩手、青森)

歌枕=和歌に使う有名な場所のこと。


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「末の松山」は、正確な場所は明らかになっていないそうですが、宮城県多賀城市付近にある松の山を指すという説があります。

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末の松山 浪越さじ=
貞観(じょうがん)地震」で起きた大津波でも、
あの「末の松山」を波が越すことなどあり得ないように、
心が変わることはない。


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貞観地震」とは

869年に、
陸奥国東方沖の海底を震源地として発生したと推定されている巨大地震

津波により多数の人々が亡くなりました。

この時の天皇清和天皇(当時20歳)です。

皇太子は貞明親王(のちの陽成天皇、当時1歳)
陽成天皇親王時代に詠んだ歌は、百人一首13番にあります。

百人一首14番歌の作者、源融中納言(当時48歳)でした。
864年から869年まで陸奥按察使(あぜち、官職)にありました。
陸奥(みちのく)のしのぶもぢずりたれゆえに・・」と陸奥を歌に詠んでいます。


貞観地震の時は、藤原基経(当時34歳、中納言、のち摂政)が陸奥按察使だったようです。


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貞観地震から40年後に生まれた清原元輔の時代には、
「末の松山浪越さじ」は
「決して起こらないこと」
「心変わらないこと」
「永遠に変わらぬ愛」を表すようになったのですね。

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清原元輔は、「梨壺の五人」の一人です。

「梨壺の五人」とは、天暦5年(951年)村上天皇の命により、平安御所に置かれた和歌所に集められた五人のこと。

和歌所の庭に梨の木が植えられていたことから梨壺と呼ばれました。

清原元輔
大中臣能宣(49番歌作者)
・源順
・紀時文
坂上望城

命じられた5人は、「後撰集」の編纂や「万葉集」の訓読などを行いました。


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(41)恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり

百人一首41番歌

恋すてふ
わが名はまだき
立ちにけり
人知れずこそ
思ひそめしか

拾遺集」恋1-621

by 壬生忠見(みぶのただみ)
生没年不詳
30番歌・壬生忠岑の子

恋してるという私の噂は、早くも世間に立ってしまいました。人に知られないようにひそかに思い始めたばかりなのに。

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ひそかに思いはじめたばかりなのに、立ち振る舞いが人に気づかれてしまうほど、夢中になってしまっている、とまどいを詠んだ歌。

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天徳内裏歌合で、40番歌と優劣つけがたく争い敗北しました。

忠見は、この歌合戦の後、摂津に赴任したそうです。

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番外メモ 天徳内裏歌合

番外メモ


天徳内裏歌合
(てんとくだいりうたあわせ)=
天暦御時歌合
(てんりゃくおんときうたあわせ)

右チーム、左チームに分かれて、歌を詠む方人(かたうど)、自分方の歌を褒めたり相手方の歌を批判したりする念人など、一首ごとに勝負をする歌合。

960年(天徳4年)清涼殿にて、12題、20番勝負で競われました。

村上天皇が主催の歌合。


村上天皇
父は醍醐天皇
母は穏子皇后
兄は朱雀天皇


村上天皇は、兄の朱雀天皇の治世時に起きた平将門の乱藤原純友の乱が収束してから即位しました。


村上天皇は、親政を志向して「天暦の治」と後世に称されたので、天徳歌合を「天暦御時歌合」とも言います。


百人一首40番歌の作者・平兼盛は、
「恋」の題で、
百人一首41番歌の作者・壬生忠見と優劣を競い、
村上天皇の意向で平兼盛の歌が勝ちとされました。


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百人一首38番歌の作者・右近も
念人(ねんにん、おもいびと)として参加したようです。
(右近=穏子后(村上天皇の母)に仕えた女官)


念人=自分方の歌を褒め称えたり、相手方の歌を批判したりする、応援人。世話人

紅白歌合戦みたいですし、
1回ごとに勝敗が決まるのは相撲みたいですね。

審判役を判者(はんざ)、判定の詞(ことば)を判詞(はんし=判定理由)といいます。


和歌を詠むことは大切な教養のひとつとされ、歌の優劣が出世にもかかわる重大事であったそうです。

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天徳内裏歌合をWikipediaでみると、とても大がかりな歌合で、歌合の後には管弦の遊びも催され、退出は翌朝だったそうです。

その雅な趣向は後世の歌合の手本となったそうです。

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