百人一首54番歌
忘れじの
行く末までは
かたければ
今日を限りの
命ともがな
「新古今和歌集」恋3-1149
by 儀同三司母
高階貴子
(たかしなのきし、たかこ)
生年不詳~996年
藤原道隆の妻
一条天皇后定子の母
忘れないと仰いますが、これから遠い先までずっとなんて難しいことですから、いっそ今日限りの命でありたい。
儀同三司は准大臣のことで、三司(太政大臣・左大臣・右大臣)と儀が同じという意味です。息子の伊周のこと。
「新古今集」の詞書
「中の関白、通ひそめ侍りけるころ」
「中の関白」は、百人一首53で詠まれた藤原兼家の本妻の子道隆のこと。
道隆は、摂政・関白となり権勢をふるいました。
紫式部が仕えたのは彰子。
一条天皇の后、定子の生んだ第1皇子は天皇にならず彰子の生んだ第2皇子が天皇になるのですが、
その理由の1つに
「第一皇子の生母である皇后・藤原定子の外戚である高階氏は、伊勢斎宮・恬子内親王と在原業平の不義密通の子(高階師尚)の後裔であるため、この一族は伊勢神宮に憚りがある。」
Wikipediaでこれを読んだ時は驚きました。
皇后定子の母・高階氏は、天武天皇の長男高市皇子を始祖とする長屋王の末裔の筈が、在原業平の後裔という噂が公式文書に?
週刊誌のゴシップのような話です。
54番歌作者高階貴子は、夫の死後、儀同三司だった息子たちが政争に破れ流罪となると、同行を願ったが許されることなく同年病没、40代だったようです。
(春はあけぼの・・)の清少納言の枕草子の裏には、定子の悲劇、そして、定子の母の悲劇もあるのですね。
「今日を限りの命ともがな」
この歌を詠んだ頃が人生で1番良いときだったのですね。