百人一首42番歌
契(ちぎ)りきな
かたみに袖を
絞りつつ
末の松山
浪(なみ)越さじとは
「後拾遺集」恋4-770
by 清原元輔
908~990
清少納言の父
36番歌・深養父(ふかやぶ)の孫
36歌仙の一人
「後撰集」撰者の一人
約束しましたよね、涙に濡れた袖を絞り合いながら、あの末の松山を波が越すことなどあり得ないように、心が変わることはないと。
「末の松山」は、陸奥の歌枕です。
(陸奥=福島、宮城、岩手、青森)
歌枕=和歌に使う有名な場所のこと。
「末の松山」は、正確な場所は明らかになっていないそうですが、宮城県多賀城市付近にある松の山を指すという説があります。
末の松山 浪越さじ=
「貞観(じょうがん)地震」で起きた大津波でも、
あの「末の松山」を波が越すことなどあり得ないように、
心が変わることはない。
「貞観地震」とは
869年に、
陸奥国東方沖の海底を震源地として発生したと推定されている巨大地震。
津波により多数の人々が亡くなりました。
皇太子は貞明親王(のちの陽成天皇、当時1歳)
陽成天皇が親王時代に詠んだ歌は、百人一首13番にあります。
百人一首14番歌の作者、源融は中納言(当時48歳)でした。
864年から869年まで陸奥按察使(あぜち、官職)にありました。
「陸奥(みちのく)のしのぶもぢずりたれゆえに・・」と陸奥を歌に詠んでいます。
貞観地震の時は、藤原基経(当時34歳、中納言、のち摂政)が陸奥按察使だったようです。
貞観地震から40年後に生まれた清原元輔の時代には、
「末の松山浪越さじ」は
「決して起こらないこと」
「心変わらないこと」
「永遠に変わらぬ愛」を表すようになったのですね。
清原元輔は、「梨壺の五人」の一人です。
「梨壺の五人」とは、天暦5年(951年)村上天皇の命により、平安御所に置かれた和歌所に集められた五人のこと。
和歌所の庭に梨の木が植えられていたことから梨壺と呼ばれました。
・清原元輔
・大中臣能宣(49番歌作者)
・源順
・紀時文
・坂上望城
命じられた5人は、「後撰集」の編纂や「万葉集」の訓読などを行いました。