百人一首38番歌
忘らるる
身をば思はず
誓ひてし
人の命の
惜しくもあるかな
「拾遺集」巻14・恋4・870
by 右近
生没年未詳
右近少将季縄(すえなわ)の娘
忘れられる私の身のことは何とも思いません。忘れないと神に誓ったのに誓いを破った罰を受けて奪われてしまうあなたの命が惜しいのですよ。
右近の父・右近少将季縄(すえなわ)は、藤原季縄。藤原南家の系統です。
右近は、醍醐天皇の中宮穏子(おんし、やすこ)に仕えた女房です。
960年、右近は、醍醐天皇~村上天皇頃、「天徳4年内裏歌合」には念人として参加したようです。
966年、村上天皇主催の歌合、清涼殿の台盤所で行われた「内裏前栽合」(だいりぜんざいあわせ)にも出詠するなど、歌壇で活躍しました。
「大和物語」には、右近と藤原敦忠(あつただ)・師輔(もろすけ)・朝忠(あさただ)・源順(みなもとのしたごう)などとの恋愛が描かれています。
第60代醍醐天皇の中宮穏子(おんし・やすこ)は、藤原基経(もとつね・藤原北家・初代関白)の娘。
穏子の兄・藤原時平は、39歳で病死していますが、菅原道真の怨霊ではないかと言われました。
穏子の息子(醍醐天皇の皇子)保明親王は、1歳で皇太子とされましたが、923年(延喜23年)に21歳の若さで亡くなりました。やはり、菅原道真の祟りなどと言われたそうです。
保明親王と恋仲だった大輔(保明親王の乳母の娘)の哀しみの歌が「大和物語」に載っています。
穏子の兄で藤原北家の氏長者になった忠平の歌は、
「百人一首26番歌」です。
平将門の乱を起こした将門は、10代の一時期に忠平の従者として10年ほど過ごしましたが、要職に就くことなく関東へ戻り、その後、940年前後に将門の乱を起こしました。
穏子に仕えた右近も色々大変だったではないかと思いますが恋多き優秀な女性だったのでしょうね。
平将門の乱など無かったかのように恋愛の歌が選ばれてる所に百人一首らしさを感じます。