(26)小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば

百人一首26番歌

小倉山
峰のもみぢ葉
心あらば
今ひとたび
みゆき待たなむ

拾遺集・雑秋・1128

by 貞信公=藤原忠平
880~949
藤原道長の曾祖父



小倉山の峰のもみじ葉、もし心があるならば、もう一度天皇がおいでになるその日まで、どうか美しいまま散らないで待っていてほしい。


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小倉山は、京都桂川(保津川、大井川)の北岸に位置し、南岸の嵐山と相対する山。
藤原定家が「小倉百人一首」を選んだ小倉山荘があった山。


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拾遺集の詞書に
「亭子院(ていじいん=宇多上皇)大井河に御幸ありて、行幸(天皇のお出まし)もありぬべき所なりと仰せたまふに、事の由(よし)奏(そう)せんと申して」とあります。

小倉山の美しい紅葉をその子醍醐天皇にも見せたいと言われたとき、「上皇がこのように仰いましたと、醍醐天皇に申し上げましょう。」と、忠平が詠んだ歌です。



藤原忠平は、藤原基経(関白太政大臣)の4男。
藤原基経の嫡男は時平。

長兄の藤原時平は、百人一首24番歌の作者・菅原道真が左遷されてから政治手腕を発揮し、荘園整理令を出して班田を実施、延喜式の編集を始めました。

時平が39歳で早世した後を継いだのが、忠平です。=忠平が藤原北家氏長者となります。



左大臣となった忠平は、兄の遺業・延喜式(中央集権国家の基本法典)を完成させるなど、延喜の治と呼ばれる政治改革を行いました。

忠平は、朱雀天皇の時に摂政、次いで関白に任じられ、村上天皇の初期まで長く政権の座にあり、のちの藤原氏の繁栄へと導きました。


忠平は温厚な人格で、菅原道真の政治家としての能力を評価し、道真の没後はその名誉回復につとめたそうです。



藤原忠平藤原道長の曾祖父であり、百人一首の選者・藤原定家の先祖です。

忠平の妻は、源順子=菅原の君(大和物語より)。
源順子(みなもとの じゅんし)は、宇多天皇の皇女ですが、宇多天皇とは9歳違いなので養女だったようです(未詳)。
もうひとりの妻は、源昭子(源能有の娘)。


忠平と順子の息子・長男は、藤原実頼

忠平と昭子の息子は師輔(もろすけ)、師氏(もろうじ)、師尹(もろただ)。

のちに、忠平の次男・師輔の家系は天皇外戚として大いに栄えることになります。


平将門の乱を起こした平将門は、桓武天皇の子孫で、10代の時期に、京都で忠平の従者であったこともありました。
平将門は、要職に就くことなく、父・平良将が早世すると関東に帰りました。
その後の939年(天慶2年)に関東で平将門の乱を起こしました。