(25)名にし負はば 逢坂山の さねかずら

百人一首25番歌

名にし負はば
逢坂山のさねかずら
人に知られで
くるよしもがな

後撰集・恋3・700

by 三条右大臣=藤原定方
873~932
紫式部の曾祖父(祖母の父)
醍醐天皇の外叔父



「逢坂山のさねかずら」(逢って寝る)という名にあやかって、葛(かづら)のつるを手繰ってあなたに、誰にも知られずに逢いに行けたらいいのに。



後撰集」の詞書に「女につかはしける」とあるそうです。
人目を忍ぶ恋の歌。
歌にさねかずらを添えて贈ったようです。

さねかずら=
常緑低木、つる性の山野草
さね=小寝=共寝

くる=
来ると繰る(たぐり寄せる)を掛けてます。
この場合、来る、は相手の処へ行く、という意味のようです。


逢坂山=
今の京都と滋賀県大津市の境にある山

平成21年(2009年)に「逢坂の関記念公園」が完成し、3基の歌碑があるそうです。

蝉丸(百人一首10番歌)
これやこの 行くも帰るも 別れては
知るも知らぬも 逢坂の関

三条右大臣(百人一首25番歌)
名にしおはば 逢坂山の さねかずら
人に知られで くるよしもがな

清少納言(百人一首62番歌)
夜をこめて 鳥の空音は はかるとも
世に逢坂の 関はゆるさじ



三条右大臣、藤原定方は、平安時代の役人。
順調に昇進し、924年、醍醐天皇の治世時に、右大臣になり、藤原北家嫡流藤原忠平左大臣)と並びました。

父は藤原北家藤原高藤

藤原定方は、山科に勧修寺を建立し、その寺の名から、藤原北家勧修寺流の祖となりました。

歌、管弦の名手だったそうです。
邸宅が三条坊門小路の北面にあったため、三条右大臣と呼ばれたそうです。

932年、朱雀天皇治世時に逝去しました。

子孫に、紫式部がいます。
(定方は紫式部の曾祖父・祖母の父)