(27)みかの原 わきて流るるいづみ川

百人一首27番歌

みかの原
わきて流るる
いづみ川
いつ見きとてか
恋しかるらん

新古今集・恋1996

by 中納言兼輔(藤原兼輔)
877~933
36歌仙のひとり
紫式部の曾祖父(祖父の父)
藤原北家



瓶原(みかの原)を分けて湧いて流れる泉川、その川の名のように「いつみ」たというのか、逢ってもいないのにこんなに恋しいなんて。


(この歌の作者は兼輔ではないとも言われます)

兼輔は、醍醐天皇時代、文化的サロンで活躍し、大和物語に多数の恋の逸話が載っているそうです。

兼輔は、邸宅が賀茂川の堤近くにあったことから、通称・堤中納言といわれます。

虫めづる姫君」で有名な「堤中納言物語」とは関係ないようです。


また兼輔は「聖徳太子伝暦」の編者ということでしたが、最近は編者ではないとされているようです。



みかの原=瓶原
奈良との境あたり、京都府木津川市加茂町にある地名。
元明天皇離宮聖武天皇恭仁京(くにきょう)があった所。


泉川=現在の木津川


恭仁京は、木津川をはさんで、加茂地区に左京、山城地区に右京、と、分かれてあったようです。


わきて=
「湧きて」と「分きて」の掛詞(かけことば)


いつ見きとてか=
(噂や手紙などだけで、逢ってないのに)いつ見たというのか


会った事が無くてもメールや想像で恋してしまうような感じでしょうか。


聖武天皇=第45代天皇
701~756年
在位724~749年

724年(24歳)聖武天皇が即位しました。


737年(天平9年)
天然痘の流行により、藤原不比等の息子たち・藤原4兄弟が亡くなり、

橘諸兄(たちばなのもろえ)が、藤原4兄弟にかわって政治を行うようになりました。

740年、橘諸兄政権に反発した藤原広嗣が九州で反乱を起こしました。

聖武天皇は、疫病や朝廷への反乱などの危機のため、橘諸兄が整備した京都木津川流域の「瓶原恭仁京」に入りました。


740~745の5年間
平城京▶みかのはら恭仁京難波京紫香楽宮平城京
と遷都しました。


749年、聖武天皇は出家し、娘の阿倍内親王孝謙天皇)に譲位しました。

752年、東大寺大仏開眼供養が行われました。

756年に、第45代天皇聖武上皇は56歳で崩御されました。

757年に、橘奈良麻呂の変が起き橘氏が粛清されると、藤原氏が政治を行うようになりました。

第46代、孝謙天皇

第47代、淳仁天皇(じゅんにんてんのう=天武天皇の孫)

第48代、称徳天皇(孝謙天皇重祚)の後、

770年、天智天皇の孫の白壁王(62歳)が即位し、第49代光仁(こうにん)天皇となりました。

第49代光仁天皇即位により、天武天皇(大海人皇子)の皇統は断絶し、百人一首1番歌の天智天皇(中大兄皇子)の皇統に移りました。



27番歌の作者・藤原兼輔は、藤原不比等の息子たち藤原4家のひとつで、藤原道長などのいる最も繁栄した藤原北家の一人です。



百人一首27番歌
「みかの原・・・恋しかるらん」

聖武天皇恭仁京があった「みかの原」

恋の歌、そして鎮魂の歌のように思えてしまいます。