百人一首10番歌
これやこの
行くも帰るも
別れては
知るも知らぬも
逢坂の関
by 蝉丸(せみまる)
詳細不明
平安時代前期の人
これがあの、
京から東国へと旅立つ人も
それを見送って京へ帰る人も ここで別れ、
知ってる人も知らない他人も ここで出逢うという、
あの有名な逢坂の関
人生は、別れもあれば出会いもあるという人生観を詠んだという解釈や
ここで別れたり出会ったり、逢坂の関とは上手く名をつけたものだな~という解釈があります。
何となく、孤独な作者の心情を感じました。
実は賑やかな明るい人だったかもしれませんけれど。
逢坂の関(おうさかのせき)で、数々のドラマがあったことでしょうね。
「逢坂の関」は、当時、山城国(京都府)と近江国(滋賀県)の境にあった関所だそうです。
蝉丸という人は、詳細不明ですが、
逢坂山に住む盲目の琵琶法師だったという説もあります。
蝉丸の生きた年代は不明ですが、
平安時代初期、富士山の火山活動は活発で噴火を起こしています。
桓武天皇の頃の延暦19年-21年(800-802年)、富士山が大噴火し、延暦大噴火と呼ばれています。
東側斜面に
側火口の「西小富士」を形成し、降灰が雨のように降り当時の東海道だった足柄路が通行不能になり、箱根路が開発されたようです。
逢坂の関は、
大化2年(646年)に初めて置かれた後、
桓武天皇の治世時の延暦14年(795年)に一旦廃絶されました。
857年、再び関が設置されました。
寛平7年(895年)の太政官符では「五位以上及孫王」が畿内を出ることを禁じており、この中で逢坂の関を畿内の東端と定義しています。
関はやがて旅人の休憩所としての役割なども果すようになり、天禄元年(970年)には藤原道綱母が逢坂越の際に休息した事が蜻蛉日記に記されています。