(11)わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと

百人一首11番歌

わたの原
十島かけて
漕ぎ出でぬと
人には告げよ
海人の釣舟

わたのはら
やそしまかけて
こぎいでぬと
ひとにはつげよ
あまのつりぶね

by 参議 篁
さんぎ たかむら=小野篁
(802~852年)



わたの原=広い海
十島=沢山の島々
海人=漁師

(遠い隠岐の島に向かって)
はるか大海原へ、沢山の島々を目指して、その先の配所へと漕ぎ出して行ったと、都にいる愛する人々に告げてくれませんか、釣り船の漁師さん。

篁(たかむら)は、遣唐使の遣唐副使に任じられました。

37歳のとき、乗船の際に遣唐大使と争い事を起こして渡航しませんでした。

それから遣唐使を風刺する漢詩を作るなどして嵯峨天皇の逆鱗に触れ、隠岐の島へ流罪となりました。

その船出の時の歌だそうです。

流罪となり遙かな島へ送られるとき、見送る人もいないから漁師に言伝を頼みます。届くはずはないけれど。


遣唐使のあった頃、日本は国風暗黒時代でしたが、篁は和歌や漢詩、書にも優れていたそうです。

篁は、840年に赦免され帰京し、官職、参議、議政官などに任ぜられ活躍し、病気のため、51歳で亡くなりました。

親孝行な人柄で、高官になっても金銭には淡白な人だったそうです。

篁は、この世もあの世もいける人、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていた、という伝説があります。

篁の妻は、藤原冬嗣の娘で、仁明天皇の女御順子の妹。
書で有名な小野道風(おののとうふう)は小野篁の孫です。

宇治拾遺物語の第49話に「小野篁の広才の事(頓智)」があります。

嵯峨帝が在位中の時、誰かが内裏に札を立てたが、それには「無悪善」と書かれてありました。

帝が篁に読ませようとしますが、篁は申し上げられないと断ります。

何度も「申せ」と言われ(無悪を、さが、なし、訓じて嵯峨無しの意)と奏上したところ

「お前以外に誰が書こうか」
「ですから、読めますが申し上げられないと申しました」
「では、書いてある物なら何でも読めると言うのだな」
「何でも読み申しましょう」

帝は片仮名の「子」の字を12お書きになり「読め」と仰せられ、篁は、
「ねこ子、子ねこ、しし子、子じし」
と読んだので、帝は微笑まれて、何のお咎めもなく終わりました。

片仮名の「ネ」=「子」=「し・こ・ね」の3通りの読み方ができたので、
「ネコの子は子ネコ、ししの子は子じし」と、篁は即座に頓智で読み返したということです。



今昔物語集」巻20-45 には、
「冥界を行き来した小野篁」の逸話が書かれています。



百人一首11番歌の作者、小野篁(おのたかむら)が配流になった「隠岐の島」

どのような島なのか調べてみました(^^)

島根県の観光ホームページ「隠岐の島旅」によると、

隠岐諸島は、島根半島の北方焼く80Kmに位置し、大小約180(!)を超える島があるそうです。

プロモーション映像「美しの島 隠岐」とても素敵な映像です。

「古くは、聖武天皇の時代に遠流の地として定められてからは、小野篁や後鳥羽・後醍醐両帝を始めとする、約3000人余りの人が流され..(略)そのほとんどが牢獄に入ることなく、里人と共に暮らしたとも伝えられており、人情の島でもあります。」

今ではフェリーや飛行機✈で気軽にいけます(๑'ᴗ'๑)

隠岐ユネスコ世界ジオパーク」の動画ライブラリに、色々な動画が公開されてます。