番外メモ 聖武天皇の時代

番外メモ 聖武天皇の時代


聖武天皇=第45代天皇
701~756年
在位724~749年

父は文武天皇
母は宮子(藤原不比等の娘、または養女)


724年(24歳)首(おびと)王子が即位し、聖武天皇となりました。

729年に起きた「長屋王の変」により長屋王が自害すると、藤原不比等の子・藤原四兄弟が政治を行うようになりました。


737年(天平9年)
天然痘の流行により政治を行っていた藤原4兄弟が亡くなるなど政治が混乱しました。

橘諸兄(たちばなのもろえ=葛城王)が、藤原4兄弟にかわって政治を行うようになりました。

740年、橘諸兄政権に反発した藤原広嗣が九州で反乱を起こしました。

聖武天皇は、疫病や朝廷への反乱などの危機のため、橘諸兄が整備した京都木津川流域の瓶原(みかのはら)の恭仁京に入りました。

740年(天平12年)12月、聖武天皇は、平城京から恭仁京に遷都しました。

741年
国分寺建立の詔が発せられました。

742年には、近江に離宮紫香楽宮(しがらきのみや)を造営しました。


743年
墾田永年私財法が制定され、
大仏建立の詔が出されていますが、聖武天皇は、近江の離宮紫香楽宮(しがらきのみや)に滞在していることが多かったようです。

東大寺のホームページによると、東大寺国分寺として当初、紫香楽宮において造仏工事が開始されたそうです。
火事や天災などにより平城京に遷都されることになり、現在の場所に大仏が建立されることになったそうです。

744年(天平16年)2月
難波京(大阪市)に遷都しました。

同744年、聖武天皇の皇子・安積親王(あさかしんのう)が亡くなりました。

Wikipediaによると、先代の天皇元明上皇聖武天皇の伯母)が、聖武天皇の後見として政務を行い、名代として難波京遷都の勅を発したとあります。


745年(天平17年)1月
難波京に遷都した1年後には、紫香楽宮を都としましたが、火事などにみまわれて、同年5月に平城京へ戻ることになりました。


古代、740~745の5年間
平城京恭仁京難波京紫香楽宮平城京
聖武天皇の時代、度々遷都した理由は、宮廷内の内紛分裂等、諸説あり詳細は分かりません。



瓶原=みかのはら=京都の端、奈良との境近い所

瓶原恭仁京=くにきょう、くにのみやこ
正式名称「大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)」


紫香楽宮=しがらきのみや=滋賀県(近江)甲賀市信楽町



749年、聖武天皇は出家し、娘の阿倍内親王孝謙天皇)に譲位しました。

阿倍内親王の即位に反対派の橘諸兄の息子・橘奈良麻呂と、推進派の藤原仲麻呂の対立が深まりました。

阿倍内親王が即位し孝謙天皇となると、藤原仲麻呂の勢力が増しました。


752年、東大寺大仏開眼供養が行われました。


756年に、第45代天皇聖武上皇は56歳で崩御されました。



757年に、橘奈良麻呂の変が起きました。

橘奈良麻呂の変とは・・・

聖武太上天皇の遺言により皇太子となっていた道祖王(ふなどおう)は、孝謙天皇藤原仲麻呂によって9歳で廃太子とされ亡くなりました。

仲麻呂は、外戚関係の大炊王(おおいおう=淳仁天皇)を立太子としましたが、奈良麻呂と反仲麻呂勢力は長屋王の子の黄文王を擁して決起しようとしました。

決起は未遂に終わり、橘奈良麻呂勢力は粛清され、藤原仲麻呂の勝利となりました。

橘奈良麻呂の変」の時には、大伴一族も処罰を受けましたが、百人一首6番歌の作者の大伴家持は関与せずとして処罰は免れました。



第46代、孝謙天皇

第47代、淳仁天皇(じゅんにんてんのう=天武天皇の孫)(淳仁天皇の諡は、明治3年に贈られました)

孝謙上皇淳仁天皇が対立するようになり、淳仁天皇派の藤原仲麻呂は挙兵しますが敗北しました。

仲麻呂は琵琶湖のほとりで滅亡し、淳仁天皇は廃されて淡路へ流されました。

第48代、称徳天皇(孝謙天皇重祚)の後、

770年、天智天皇の孫の白壁王(62歳)が即位し、第49代光仁(こうにん)天皇となりました。

第49代光仁天皇即位により、天武天皇(大海人皇子)の皇統は断絶し、百人一首1番歌の天智天皇(中大兄皇子)の皇統に移りました。



聖武天皇のお母様宮子姫は、夫・文武天皇にお願いして、両親のために紀州道成寺」を建てたそうです。

聖武天皇は、お母様と長く会えなかったり、天災や反乱にあったり、お子様(皇子)を亡くされたり・・


*.。.*゚*.。.*゚*.。.*゚


平城京は、世界遺産古都奈良の文化財」のひとつ「平城京跡歴史公園」として広い公園になってるそうです。


Wikipedia 天武天皇のページより・系図