百人一首メモノート

ネットや本で勉強したノートです。

番外メモ 藤原実定と平安末期

百人一首81番歌作者・藤原実定と平安末期


藤原実定は、3歳で従5位下に叙されてから順調に出世しました。

1156年、保元の乱
1159年、平治の乱が起こりました。

やがて平氏が興り、平清盛一門が政権を握りました。


1164年、藤原実定は、26歳で権大納言になりましたが、27歳で辞職しました。

辞職の理由は、同官の藤原実長に官位を超えられたためとされますが、実定は平氏とつかず離れず、宮中歌合に参加するなど文化人として身を処しました。


1164~1165年、後白河院離宮法住寺殿の一画に、平清盛の寄進により三十三間堂が建てられました。
三十三間堂は創建から80年後に焼失しましたが、後嵯峨院によって1266年に再建されたものが現在まで残っています。)
後白河院が眠る「法住寺陵」は三十三間堂の東隣にあります。)

1165年
後白河院の第1皇子・二条帝が病に臥せ、2歳(満7カ月)の皇子・六条帝が即位しました。
まもなく二条帝は23歳で崩御しました。


1168年
後白河院平清盛は、六条帝を5歳(満3歳)で退位させ、後白河院の第7皇子・高倉帝(8歳、平清盛の妻の妹の子)を即位させました。


1169年、後白河院が出家して後白河法皇となりました。

1172年
平徳子平清盛の娘、建礼門院)が高倉帝の中宮となりました。

1177年
鹿ヶ谷事件が起きました。

平家物語」には
鹿ヶ谷の陰謀』とされる平家打倒を企てた首謀者として、
藤原成親後白河法皇の側近)が配流される途中で絶命したと書かれています。


1177年
藤原実定は大納言に還任しました。
平家物語」には、実定が厳島神社に詣でて平清盛に気に入られて左大将になったという逸話が書かれています。


1178年
高倉帝の中宮徳子に皇子(安徳帝平清盛の孫)が誕生して皇太子とされました。

f:id:itukasan:20201023113019g:plain

1179年
後白河法皇平清盛が対立し、「治承3年の政変」が起こり、後白河法皇平清盛により鳥羽殿(白河院鳥羽院が造営した、京都の南にあった広大な離宮。城南離宮。)に一時幽閉されました。


1180年
高倉帝が言仁親王安徳帝)に譲位し院政を始めました。

同1180年
平清盛が都を京都から福原(兵庫県)に遷し、安徳帝・高倉院・後白河法皇行幸が行われ藤原実定も同行しました。

同1180年
後白河法皇の第3皇子・以仁王
以仁王の令旨」をだして源氏に平氏打倒の挙兵を促し、源頼政と共に自ら挙兵しましたが失敗して戦死しました。


以仁王の挙兵は失敗しましたが、平氏追討令を受けた源頼朝木曽義仲など各地の源氏が挙兵しました。

平清盛は、福原京遷都半年後に、平氏打倒軍を鎮圧するため、平安京へ都を戻しました。

1181年
院政を開始した高倉院が、病により崩御しました。

同1181年
平清盛が熱病により没しました。


平清盛没後は、後白河法皇院政を再開しました。


1183年
後白河法皇源義仲平氏追討の令旨をだしました。


1183年
倶利伽羅峠の戦い」で平氏軍が壊滅し、源義仲軍に追われて平氏都落ちしました。


後白河法皇は、安徳帝の異母弟の尊成親王(後鳥羽帝)を即位させました。

(1183年~1185年まで、安徳帝と後鳥羽帝の在位期間が重複)

1184年
源義経源義仲を破り、義仲は戦死しました。


藤原実定は、
源義仲(=木曽義仲)の時代に一時解任されましたが、義仲没後復帰し1184年に内大臣になりました。


1185年
壇ノ浦の戦い平氏は滅亡し安徳帝も入水崩御しました。

後白河法皇は、源義経源頼朝追討令を出し、のち源頼朝源義経の追討令を出しました。


1186年
藤原実定は右大臣となり、後白河法皇の大原御幸に従いました。


1189年
源義経が奥州平泉で自決しました。


1189年
藤原実定は左大臣となり、九条兼実の補佐役として活躍しました。


1190年
藤原実定は左大臣を辞し、
1191年に病により出家し、その年に没しました。


f:id:itukasan:20200512073324p:plain


1192年まで後白河法皇による院政が行われ、後白河法皇崩御後は、関白九条兼実が朝廷を指導しました。

九条兼実は、源頼朝征夷大将軍を授与し、鎌倉幕府が成立しました。


1196年
「建久7年の政変」が起こり、
九条兼実が関白を罷免され、勢力が朝廷から一掃されました。


1198年
土御門帝が即位し、後鳥羽院(17歳)が院政を敷きました。

1210年
後鳥羽院の意向により、土御門帝が順徳帝に譲位し、後鳥羽院による院政が続きました。


1219年
鎌倉幕府第3代征夷大将軍源実朝が暗殺され、源氏政権は3代で滅びました。
鎌倉幕府で実権を握った北条氏は、京都から藤原頼経を将軍に迎えました。


1221年
順徳帝は子の懐成親王(仲恭帝)に譲位して上皇になり、鎌倉幕府打倒に乗り出しました。

1221年
承久の乱」が起きました。

後鳥羽院側は北条氏幕府軍に敗れ、後鳥羽院隠岐に配流されました。
土御門院は土佐に、順徳院は佐渡に配流されました。

恭帝は在位70日で、即位式大嘗祭もないまま天皇の位から下ろされ、後堀河帝が即位し、鎌倉幕府の監視下に置かれました。


f:id:itukasan:20200329132534p:plain