百人一首94番歌
み吉野の
山の秋風
小夜(さよ)ふけて
ふるさと寒く
衣打つなり
「新古今集」秋下483
詞書『擣衣のこころを』
by 参議雅経(藤原雅経)
1170~1221
藤原(難波)頼経の息子
蹴鞠の飛鳥井流の祖
「新古今集」撰者のひとり
吉野の山に秋風が吹きわたり、夜ふけの旧都・吉野の里では衣を打つ砧の音が風に乗って寒々と聞こえてきます。
「擣衣」とうい
=砧(きぬた)
=衣板(きぬいた、木や石の台)にのせて、木槌で布地を打って柔らかくしたり艶を出したりすること。
この歌の本歌は、
「古今集」冬325
み吉野の
山の白雪
つもるらし
ふるさと寒く
なりまさるなり
by 坂上是則
朝ぼらけ
有明の月と
みるまでに
吉野の里に
ふれる白雪
奈良の『吉野宮』は、
「日本書紀」に応神天皇や雄略天皇が行幸した記事があり、
大海人皇子(天武天皇)が妻讃良(持統天皇)や草壁皇子と共に隠棲し挙兵し壬申の乱を起こした場所とされています。
「新古今集」の巻頭歌も、み吉野です。
み吉野は
山もかすみて
白雪の
ふりにし里に
春は来にけり
by 摂政太政大臣(藤原良経)
94番歌の「ふるさと」は、
『吉野宮』
または、
『旧都奈良』と、二つの見方があるようです。
本歌取りした本歌作者・坂上是則は坂上田村麻呂の子孫で蹴鞠の名人でした。
藤原雅経も蹴鞠の名人で飛鳥井流を開きました。
・・蹴鞠といえば・・
中大兄皇子(天智天皇、百人一首1番歌)と中臣鎌足(藤原定家の先祖)の出会いのきっかけとなった蹴鞠(打毬)のエピソードが日本書紀に書かれています。
雅経の父は・藤原頼経ですが、
鎌倉幕府4代将軍の藤原(九条)頼経とは別人の藤原(難波)頼経です。
父・頼経は、源義経の同盟者で鎌倉幕府に対抗したため解官され流罪となりました。
雅経も連座して鎌倉に護送されましたが、和歌・蹴鞠の才能を評価されて源頼朝の猶子となりました。
その後は後鳥羽上皇の近臣となり参議に任命されました。
歌壇で活躍し、1201年に和歌所寄人となり、藤原定家らと共に「新古今集」の撰者の一人になりました。
蹴鞠では、1208年に後鳥羽上皇から「蹴鞠長者」の称号を与えられ、後に飛鳥井流蹴鞠の祖となりました。
鎌倉に度々下向し、3代将軍実朝と藤原定家や鴨長明との間を取り持ちました。
雅経は、後鳥羽上皇・土御門天皇・順徳天皇の3代に仕え、子孫は歌道を継いで繁栄しました。
雅経の家集に「明日香井和歌集」があります。
後の室町時代に、21代勅撰集の最後の和歌集「新続古今集」の撰者には、子孫の飛鳥井雅世が任命されています。