百人一首90番歌
見せばやな
雄島の海人の
袖だにも
ぬれにぞぬれし
色は変はらず
「千載集」恋4-884
by 殷富門院大輔
1131~1200年頃
藤原信成の娘
後白河天皇の第1皇女殷富門院亮子に仕えた。
貴方にお見せしたいものです。雄島の漁師の袖でさえ、どれだけぬれても色は変わらないというのに。
私の袖は血の涙で色がすっかり変わってしまいました。
袖の色が変わる=激しく泣いて涙が涸れてついには血の涙が流れると暗示している
源重之の歌
松島や
雄島の磯に
あさりせし
あまの袖こそ
かくは濡れしか
殷富門院大輔は、若い頃から亮子内親王に出仕し、歌壇で長年にわたり活躍しました。
85番歌・俊恵のサロン「歌林苑」のメンバーで、藤原定家、寂蓮、西行、源頼政など多くの歌人と交流し、勅撰集にも沢山入集しています。
1192年、殷富門院の出家に伴って出家しました。
大輔の仕えた亮子内親王は、後白河天皇の第1皇女で、前の89番歌・式子内親王の姉宮。
亮子内親王には、藤原定家の姉・京極局と健御前も仕えていました。
亮子内親王(1147~1216)は、10歳の頃、伊勢の斎宮となりますが、2年ほどのち後白河天皇の譲位のときに斎宮を退きました。
1177年に母・成子が薨去、
1180年に同母弟・以仁王が敗死。
1182年に安徳天皇の准母となりました。
平家が西国へ逃れた後、
1187年、後鳥羽天皇の准母として院号を宣下されて殷富門院と称されるようになりました。
1201年、後鳥羽上皇の要請により守成親王(順徳天皇)の准母となりました。
殷富門院は、以仁王の第2王子(道尊)も育てて僧侶とし自らの御所に寺(蓮華光院)を建て道尊を住職としました。
殷富門院は、同母兄弟姉妹を見送った後薨去しました。
殷富門院も殷富門院大輔も70年ほど、凜とした人生だった感じがします。
殷富門院、待賢門院、皇嘉門院、建礼門院、美福門院・・
など、院の称号には皇居の門号や邸のある地名が用いられました。
殷富門は、大内裏の西側にあった門のひとつです。
大内裏の外側の12門を「宮城門」といいます。
Wikipedia 大内裏のページに宮城12門の読み方などが載っています。
古い昔、都が飛鳥にあったころ、
飛鳥の宮の門は、大化の改新より更に早くから、その門を守ってきた氏族や、功績のあった氏族たちの名を記念につけられていました。
平安京の大内裏の門は、飛鳥の宮の門の古名に一脈通ずる音韻を含んで名付けられました。(田辺聖子さんの本より)
殷富門は、
伊福部氏の伊福部門から、
いふくべもん➡いんぷもん
と名付けられたそうです。
大内裏の殷富門には、小野篁の孫の小野美材による筆額が掲げられていたそうです。
京都市平安京創生館では「平安京図会」(へいあんきょうずえ)が販売されています。
ネットでは「平安京オーバーレイマップ」で、かつての大内裏を現在の地図上に配置したマップが見れます。