百人一首77番歌
瀬を早み
岩にせかるる
滝川の
われても末に
逢はむとぞ思ふ
「詞花集」恋上『題知らず』229
崇徳天皇の父は鳥羽天皇。
母は、待賢門院璋子(藤原公実の娘)
滝川の流れが早いので、岩にあたって急流が2つに分かれてもいずれ1つになるように、今は引き裂かれていてもいつかまた逢おうと思っています。
1150年に崇徳院の命により作られた「久安百首」にある元歌は、
行きなやみ
岩にせかるる
谷川の
われても末に
逢はむとぞ思ふ
崇徳帝の若い頃の情熱的な歌。
崇徳帝は、鳥羽帝の第1皇子ですが、
実は白河院(鳥羽帝の祖父)と待賢門院璋子の子といわれます(不確実)。
そのため、崇徳帝は父鳥羽帝に「叔父子」と呼ばれて疎まれたとされています。
崇徳帝は、5歳で即位、父鳥羽院は22歳、政治は白河院の院政が行われました。
崇徳帝は幼い頃から和歌を好み若い時から沢山の歌を詠み、歌合も開催しています。
父鳥羽院に疎まれ譲位を迫られた崇徳帝(23歳)は、弟近衛帝(3歳)に譲位しました。
近衛帝は子ではなく弟のため崇徳院は院政を行えず、
父である鳥羽院の院政が続きました。
崇徳院は、1150年、「久安百首」を編纂。藤原俊成(定家の父)を抜擢しました。
1151年に「詞花集」を編纂。
(定家は、百人一首77番歌に「詞花集」から崇徳帝の歌を選びました。定家の父俊成の歌は、83番歌にあります。)
1155年、近衛帝が病により17歳で崩御し、崇徳院の弟・後白河帝が即位(29歳)。
崇徳院は我が子・重仁親王(母は兵衛佐局)を即位させ院政を行いたいと思いますが、後白河帝への謀反とされ追い詰められるように挙兵し、保元の乱となりました。
定家の生まれる6年前のことです。
後白河帝側が勝利し、乱後処理は後白河帝の側近・信西が行いました。
信西=高階通憲。曽祖父は藤原南家・実範。
実父の藤原実兼が早くに没し長門守高階経敏の養子となりました。
通憲の妻・藤原朝子が後白河帝の乳母だったことから後白河帝の側近となりました。
信西は、敗者の武将に数百年ぶりの死刑の復活という冷酷な処置を下しました。
敗れた崇徳院は、讃岐に流され、8年後にその地で崩御しました。
重仁親王は、保元の乱後、仁和寺に入り出家しました。(1162年に逝去)
崇徳院の后の皇嘉門院藤原聖子も出家し、1181年に京都で逝去しました。
1868年(明治元年)に崇徳院の御霊は京都に奉迎鎮座され、白峯神宮に祭られています。