(75)契りおきし させもが露を 命にて

百人一首75番歌

ちぎりおきし
させもが露を
命にて
あはれ今年の
秋も去(い)ぬめり

「千載集」雑上1023

by 藤原基俊
1056~1142
右大臣藤原俊家の子




75番歌藤原基俊も、74番歌源俊頼と同じく堀河院歌壇のひとりで、歌合の論評で対立するなどライバルだったようです。


定家の父藤原俊成は若いときに藤原基俊に師事して和歌を学んでいます。


約束してくださった「させも草」の露のように儚い言葉を頼みにして命をつないできましたが、悲しいことに願いが叶うことなく今年の秋も過ぎ去っていこうとしています。


「千載集」詞書によると

作者藤原基俊が、奈良の興福寺の仏事での講師を我が子の僧・光覚が務められるようにと、時の権力者藤原忠通に頼みました。

忠通は「しめぢが原」と言って請け負ってくれました。

しかし光覚はその年も選ばれず、嘆いて詠んだ歌がこの和歌。


「しめぢが原」は
栃木市の歌枕。さしも草(ヨモギ、もぐさ)の産地。

『なほ頼め しめじが原のさせも草 わが世の中にあらん限りは』
(任せなさい、モグサのように胸を焦がすような思いがあっても、私がこの世にいる限りは)


子を思う親心から、
軽い口約束、露に命を託して裏切られたという恨み言の歌。

恨みを詠んだ相手は、次の76番歌藤原忠通で、保元の乱平治の乱を生き抜いた人。


77番歌は、
保元の乱後白河天皇(&平清盛)に敗れ、讃岐に配流された崇徳院へと続きます。