(73)高砂の 尾の上の桜 咲きにけり

百人一首73番歌

高砂
尾上(をのへ)の桜
咲きにけり
外山(とやま)の霞
立たずもあらなむ

「後拾遺集」春上120

by 前中納言匡房(大江匡房
さきのちゅうなごんおおえのまさふさ
1041~1111
59番歌赤染衛門の曾孫



心待ちにしていた彼方の高い山の頂きの桜がいよいよ咲いた。手前の山の霞よ、どうか立たないでほしい。美しい桜がかすんでしまうから。


「後拾遺集」詞書
内大臣藤原師通邸での酒宴にて人々が和歌を詠んだときに、遥に山の桜を望むという心を詠んだ。



大江匡房は、学者として著名で、後三条天皇白河天皇堀河天皇の3代の東宮時代の学士を務め三代の師と呼ばれます。


後三条天皇から、藤原氏外戚としない天皇が始まります。


大江匡房天皇の顧問的存在でしたが、藤原氏の長(藤原師通)とも良好な関係で、百人一首73番歌は師通邸の酒宴での歌です。



和歌、宗教、漢文、兵法にも優れ、八幡太郎義家(源義家)は「後三年の役」で大江匡房の教え(孫子の兵法)を活かして勝利し、匡房を師と仰いだという伝説があります。



学者一族大江氏の始祖は、大江音人(おとんど)で、大江氏は百人一首に4首選ばれています。

23番歌 大江千里(ちさと)は、大江音人の息子。

56番歌 和泉式部は、大江雅致の娘。

59番歌 赤染衛門は、大江匡衡(まさひら)の妻。大江匡房の曾祖父母。

73番歌 大江匡房赤染衛門の曾孫)

大江匡房の曾孫の大江広元は、鎌倉幕府創設時に政所別当(まんどころべっとう)になります。


大江広元の息子の一人は毛利を名乗り、後に毛利元就が誕生します。