(72)音に聞く 高師の浜の あだ波は

百人一首72番歌

音に聞く
高師の浜の
あだ波は
かけじや袖の
濡れもこそすれ


「金葉集」恋下469

by 祐子内親王紀伊
生没年不詳
後朱雀天皇の皇女祐子内親王の女房



(有名な高師の浜の波にはかからないようにします。袖が濡れてしまっては困りますから)



「金葉集」詞書
『堀河院の御時の艶書合(えんしょあわせ)によめる』

艶書合とは、1102年、貴族が恋歌を詠んで宮仕えの女房に贈り、女房達がその返歌を書き、その2首を競い合わせる疑似恋愛の和歌遊びのような歌合せ。


紀伊に恋歌を贈った公卿は
藤原定家の祖父・中納言藤原俊忠(29歳)
相手の紀伊は70歳くらいだったそうです。



藤原俊忠が贈った歌は

人知れぬ
思ひありその
浦風に
浪のよるこそ
いはまほしけれ

(人知れぬ私の恋心を、荒磯の浦風に波が寄る「よる」ではありませんが、夜になったらあなたに話したいのですが)

ありそ=荒磯、北陸の歌枕、有磯海(ありそうみ)



伊勢は、
「ありその浦」に対して
「たかしの浜」と歌い、
俊忠の戯れな言葉には後で涙で袖をぬらすことになるでしょうから心にかけません、と返してます。


紀伊は、
兄(または夫か親)が紀伊守(きのかみ)だったため、紀伊(き)と呼ばれました。

母と共に後朱雀天皇中宮嫄子に出仕し、のち嫄子の娘で後朱雀天皇の皇女祐子内親王に仕えました。

紀伊は当時の歌よみとして名高く1056年から1113年まで数々の歌合に参加し、家集もあり勅撰集にも多く選ばれています。

藤原俊忠は、藤原道長の曾孫で御子左家(みこひだりけ)3代目です。

御子左家は、藤原道長の子長家が醍醐天皇の皇子兼明親王の邸だった御子左第(みこさてい)を譲り受けたことに始まる和歌の家柄です。