(69)嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は

百人一首69番歌


嵐吹く
三室の山の
もみぢ葉は
竜田の川の
錦なりけり


「後拾遺集」秋下366
(永承4年内裏歌合によめる)

by 能因法師
(橘永愷たちばなのながやす)
988~1050頃
橘氏の末裔



後冷泉天皇の時代、永承4年(1049年)11月9日に宮中で催された歌合で詠まれた歌。


「三室の山」と「龍田の川」は、奈良県の歌枕。
紅葉の名所ではないようです。


三室山と竜田川の地理的位置は離れているので、三室山のもみじが竜田川へ散ることはないそうですが、紅葉が流れてくるイメージを詠んだ歌だそうです。


織田正吉さんの「絢爛たる暗号」によると、定家は、紅葉の歌を欲して、能因法師のこの歌を選んだようです。

この歌は見た経験からではなくて、美しい絵をイメージさせる言葉の芸術、創作歌のようです。


能因(橘永愷)は文章生で藤原長能に師事し、26歳頃に出家して摂津の古曽部に住み、古曽部入道と呼ばれました。
諸国を旅した歌人といわれます。


百人一首は、女流歌人の歌が終わり、この先は僧の詠んだ歌が多くなります。


橘氏は、源平藤橘の四大氏族のひとつです。

橘氏の始祖は、橘三千代の子で橘諸兄(たちばなのもろえ)。

橘三千代は、県犬養(あがたいぬかい)三千代のことで、葛城王橘諸兄)の母。

三千代は後に藤原不比等に嫁ぎ、光明皇后を産みました。


三千代は、708年に元明天皇より橘宿禰(たちばなのすくね)の姓を賜りました。


葛城王は736年に聖武天皇に上表し母の姓橘姓を賜り臣籍降下して橘諸兄になりました。

橘諸兄の子、橘奈良麻呂は757年に乱を起こしますが、藤原仲麻呂に敗れ、その後の橘氏は政治的には没落していきました。