(60)大江山 生野の道の 遠ければ

百人一首60番歌

大江山
生野の道の
遠ければ
まだふみも見ず
天の橋立


「金葉集」雑上550


by 小式部内侍(こしきぶのないし)
生年不詳~1025
和泉式部(56番歌)の娘
父は和泉式部の最初の夫、橘道貞
中宮彰子に仕えた



母の居る丹後までは、大江山を越え生野を通る遠い道で、まだ天橋立の地を踏んでもいませんし、母の文も見ていません。


小式部内侍の歌が上手なのは、母の和泉式部が代作しているという噂が流れていました。

「金葉集」に
~~
母の和泉式部藤原保昌と再婚して任地の丹後に居たとき、
都で歌合が催され、小式部内侍も歌人に選ばれました。
藤原定頼(64番歌作者)が
「歌合の歌はお出来になりましたか。丹波へ使者はつかわしましたか、お母様からお返事はまだ来ませんか、さぞお心細いことでしょうね。」
とからかって去ろうとするところを引き留めて詠んだ。
~~
と長い詞書があります。


とっさの機智で詠んだこの歌は、都から丹後への道中の生野と行く、文と踏みをかけ、技巧を凝らした歌だったため、定頼は返歌できずに退散したということです。



小式部内侍は、
母とともに中宮彰子に仕えました。
関白藤原教通の寵をうけ子(のちの静円)を産み、藤原範永との間に女子を産みました。
藤原公成の子を産んだ後亡くなりました。
25~28歳頃といわれます。



56番歌にも書きましたが、
田辺聖子さんの本を参照すると、

母の和泉式部の哀しみは深く、「和泉式部集」に哀傷の歌がいくつか載っています。

そのうちの1首
「小式部内侍みまかりて、孫どもの侍るを見て」という詞書で、
「とどめおきて、誰を哀れと思ふらむ。子はまさりけり 子はまさるらむ」

愛するものに死に遅れた和泉式部の痛切な慟哭である。(本より)


ともあれ

ジュニア同士の歌、
58番歌、大弐三位の「有馬山」と
60番歌、小式部内侍の「大江山」、
歌の魅力は相伯仲する、と田辺聖子さんは書いています。