(51)かくとだに えやはいぶきの・・その②

百人一首51番歌・・その②

藤原実方は、父・定時が早世したため、叔父の大納言・藤原済時(なりとき)の養子となりました。

天延元年(973年)叙爵。左近少将、左近中将等の武官を歴任しています。
長徳元年(995年)正月、陸奥守に任じられました。

同年3月から6月にかけて、養父・済時を始めとして、関白・藤原道隆と道兼兄弟、左大臣源重信、大納言・藤原朝光、大納言・藤原道頼ら多数の大官が疫病の流行等により次々と没しました。

実方は、養父・済時の喪が明けた9月に陸奥国に出発しました。

実方の陸奥行きには48番歌作者・源重之随行しました。

長徳4年12月(999年1月)実方は、陸奥守在任中に落馬して亡くなったそうです。


実方には逸話が沢山あります。

陸奥への赴任についての逸話

①同僚に無礼を働いたため左遷させられた説
②有能な武官として、治安の乱れていた陸奥を鎮定する使命を与えられ派遣された説

①左遷説

一条天皇の面前で藤原行成と和歌について口論になり、怒った実方が行成の冠を奪って投げ捨てるという事件が発生。
このために実方は天皇の怒りを買い、
「歌枕見てまいれ」と左遷を命じられたとする逸話。
Wikipediaより)

(歌枕=名所、陸奥の名所)

②非左遷説

実方は、陸奥下向に際して官位が1段階上がり朝廷で赴任の儀式が行われている。
多くの貴族達から別れの歌がおくられている。
天皇から多大な餞別を受けた事が、当の口論相手の行成の日記『権記』に克明に記されている。
妻子を伴って、皆に送別されて京を旅立っている。

陸奥の金鉱の開発に関わっていたのではないかという説もあります。

陸奥平定してまいれ」
ではなく
「金鉱開発してまいれ」
でもなく
「歌枕みてまいれ」とは雅びなフレーズですね!



清少納言は『枕草子』に、
実方の亡霊が上賀茂神社の御手洗川に映ると聞いて、「嫌だ、気味悪いわ」と思ったと書いています。

田辺聖子さんは、
『どうも清少納言のほうは、実方をほんとに愛したのではなかったような冷淡な書きぶり』としています。

清少納言の本心はどうだったのでしょうね、素っ気なく書かなくてはならない事情があると深読みする人もいます。

和歌が上手くて人に好かれた実方なので、光源氏のモデルともいわれます。

京に戻ること無く40歳ほどの若さで亡くなってしまい、妻子も嘆いたことでしょう。