(50)君がため 惜しからざりし 命さへ

百人一首50番歌

君がため
惜しからざりし
命さえ
長くもがなと
思ひけるかな

「後拾遺集」2-恋669
詞書(女のもとより帰りてつかはしける)

by 藤原義孝
954~974
45番歌作者藤原伊尹の息子
藤原行成の父



貴方のためなら惜しくないと思っていた命ですが、今は貴方と逢う為に長く生きたいと思うようになりました。
(後朝、きぬぎぬの歌)



義孝19歳の時に、父・伊尹(45番歌作者)が49歳で亡くなりました。

義孝の妻は醍醐天皇の孫(源保光の娘)で、義孝19歳の時に長男行成が生まれ、順調に出世していた義孝でしたが、父親の死後2年後に天然痘で亡くなってしまいました。

50番歌は、まるで(もっと生きたいと)予言してるような歌で切なくなります。

天然痘の流行では多くの人が亡くなり、義孝の兄・藤原拳賢(たかかた)、52番歌作者・藤原道信(23歳)も亡くなっています。



義孝の息子・行成は、邸宅内に世尊寺を築き、能筆の子孫が代々住んだため、書の世尊寺流の始祖となりました。

義孝の息子・行成の歌は百人一首にはありませんが、清少納言の行成との応答歌が62番歌にあります。

世尊寺流の子孫には、後の平安時代の終わりの頃、建礼門院平徳子(平清盛の娘で安徳天皇の母)に仕えた建礼門院右京大夫がいます。

建礼門院右京大夫は、私家集「建礼門院右京大夫集」を編纂しています。

建礼門院右京大夫集」は、
前半は中宮のめでたさや平家の栄華や恋の歌、
後半は、平家の滅亡に壇ノ浦の海の藻屑と消えた恋人の追憶に生きた日々がつづられています。

西海から帰還した建礼門院を大原に訪ねて、その変わり果てた姿に涙して詠んだ歌は

 今や夢
 昔や夢と
 迷はれて
 いかに思へど
 うつつとぞなき


建礼門院右京大夫集」は、
最後に家集を編纂するに至った事情を述べ、藤原定家との贈答をもって結ばれています。



百人一首の折り返しの50番目の歌は、21歳で早逝した藤原義孝の歌でした。

義孝の息子は書の世尊寺流の始祖で三蹟の1人藤原行成
子孫には、悲哀の私家集「建礼門院右京大夫集」を書いた女流歌人が誕生しました。