(48)風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ

百人一首48番歌

風をいたみ
岩うつ波の
おのれのみ
くだけて物を
思ふころかな


「詞花集」(しかしゅう)7-恋211

by 源 重之(みなもとのしげゆき)
生没年不詳(~1000頃)
清和天皇の曽孫
36歌仙の1人



強い風に吹かれた波がうちつけた岩はもとのまま、波だけが砕ける、その波のように、私が思う人は平気で私だけが心も砕けるほどに思い悩んでいます。


風をいたみ=風がひどい、甚だしい


詞花集の詞書
「冷泉院春宮と申しける時、百首歌奉りけるによめる」



「風をいたみ・・」は源重之東宮時代の冷泉天皇に奉った「百首歌」に含まれる一首で、
46番歌作者・曽祢好忠の「百首歌」とともに現存する最古の百首歌からの一首です。

重之集の伝本はいくつかあり、Wikipediaによると、徳川美術館の重之集(百首歌)の伝承筆者は藤原行成。書写年代は11世紀中期から後期、です。



重之は、清和天皇の曽孫(=貞元親王の孫)で武家の棟梁へと続く清和源氏一族のひとりです。
父・源兼信は陸奥守として行った陸奥に土着しました。
重之は、伯父の参議源兼忠の養子となり、朝廷の役人となりました。

村上朝のとき、東宮憲仁親王(後の冷泉天皇)の帯刀先生(たちはきせんじょう)を務めていた時に百首歌を奏上しました。

円融天皇の治世以降は、相模権守から信濃、日向、肥後、筑前守など地方官を歴任しました。

晩年に陸奥守・藤原実方(51番歌)に随行し、その後陸奥守となり当地で没しました。

藤原実方平兼盛、三筆の藤原佐理など当時の代表的歌人と交流し、旅の歌を多く残しました。不遇を嘆く歌も多いそうです。

朝廷からの地方官は入れ替わり立ち替わりします。
癒着を防ぐ為もあってか役人の任期が短いのは今も同じですね。

48番歌の世の中は、土着した源氏や平氏が地方の人々をまとめるようになり、武士の時代へと向かっていく、そういう時がきたようです。


Wikipediaより清和源氏系図
清和源氏のページより)