百人一首44番歌
逢ふことの
絶えてしなくは
なかなかに
人をも身をも
恨みざらまし
「拾遺集」恋1-679
by 中納言朝忠(藤原朝忠)
910~966
36歌仙のひとり
25番歌作者・三条右大臣(藤原定方)の5男
土御門(つちみかど)中納言
逢うことが全くなかったなら、かえってあの人のつれなさも我が身のつらさも、恨まないでいられるでしょうに。
詞書に「天暦御時歌合に」とあり、
40番歌、41番歌と同様に内裏歌合で詠まれた歌です。
藤原朝忠は、藤原北家高藤流(勧修寺流)になります。
歌も笙(しょう、笛)も上手で恋多き人だったそうです。
少弐、大輔、右近らと恋の歌を贈答しています。
娘・藤原穆子(ぼくし)は左大臣源雅信の正室となり、摂政藤原道長の正室となった源倫子を生みました。
倫子は、第66代天皇・一条天皇の皇后となる中宮彰子を産みました。
中宮彰子は、後一条天皇、後朱雀天皇の生母なので、両天皇は、朝忠の玄孫(孫の孫)にあたります。
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朝忠は、後一条天皇、後朱雀天皇の母方の高祖父。
前の43番歌の作者・中納言敦忠は、906年生まれ、44番歌の中納言朝忠は、910年生まれで、年も近いです。
敦忠は、琵琶の名手。
朝忠は、笙の名手。
どちらも恋多き公卿でしたが、敦忠は38歳で早世し、朝忠は57歳まで生きたのは対照的ですね。