百人一首40番歌
忍ぶれど
色に出(い)でにけり
我が恋は
物や思ふと
人の問ふまで
「拾遺集」恋-622
by 平 兼盛
生年未詳~990年
光孝平氏
光孝天皇の曾孫(または玄孫)
駿河守(するがのかみ)
36歌仙の一人
心に秘めて忍んできたけれど、とうとう顔色に出てしまった、我が恋。思いわずらっているのですかと、人に問われるほどに。
村上天皇主催の歌合
960年(天徳4年)
「天暦御時歌合(天徳内裏歌合)」で披露された歌。
「忍ぶ恋」の題で、
次の41番歌(壬生忠見)と優劣を競い、村上天皇の意向でこちらの歌が勝ちとされました。
歌の作者・平兼盛は、950年(天暦4年)に臣籍降下して、平の姓を賜りました。
39番歌は、嵯峨天皇の曾孫の源等。
40番歌は、光孝天皇の曾孫(または玄孫)の平兼盛。
臣籍降下した源氏と平氏が並んでいます。
光孝天皇の歌は、百人一首15番歌にあります。
Wikipediaをみると、光孝平氏は、兼盛で絶えているようです。
(平氏は、4流ほどあるそうです)
Wikipediaをみると、嵯峨源氏弘流も、源等で絶えているようです。
(源氏は、21流ほどあるそうです)
源等=880~951
平兼盛=?~990
源等=公卿(最高幹部の公家)
平兼盛=貴族(五位以上の公家)
940年頃に「平将門の乱」を起こした将門は、桓武天皇系の桓武平氏(伊勢平氏)なので、平兼盛とは系統が違う平氏です。
百人一首40番歌は
忍ぶ恋の歌。
平将門の乱が平定された後に即位した村上天皇により盛大に催された「天徳歌合」の時に詠まれた歌でした。
「平家物語、葵の前」の悲劇の逸話に
高倉天皇が古い歌を思い出し、葵の前に送った歌が
40番歌(忍ぶれど・・)と書かれています。