百人一首24番歌
このたびは
幣(ぬさ)も取りあえず
手向山(たむけやま)
紅葉の錦
神のまにまに
古今集・巻9・羈旅(きりょ)420
by 菅家(かんけ)=菅原道真
845~903
この度は、急な旅で幣の準備もできませんでした。この錦のように美しい紅葉を幣として旅の安全を祈ります。手向山の道祖神よ御心のままにお受け下さい。
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菅原道真さん、波瀾万丈の人生でしたが、素敵な歌を残されたのですね。
古今集の詞書に、
「宇多上皇が奈良へ行幸のとき、手向山で詠んだ歌」とあります。
旅と度を掛けています。
幣(ぬさ)=
神前に供える、または祓いに使う、紙・麻などを切って垂らしたもの。
幣帛(へいはく)
手向山(たむけやま)=
旅の安全を祈って幣をたむける山、諸処にあるそうです。
この歌では、山城国(京都)と大和国(奈良)の境あたりの峠のようです。
菅原道真は、学問の神様として有名ですね。
幼少の頃から学問の才能があり、勉学に励んで学者として最高位の 文章博士(もんじょうはかせ)となりました。
京都から讃岐国へ赴任し善政を行い、宇多天皇に認められて京都で役人として活躍しました。
道真は、宇多天皇が上皇になっても信頼されて、遣唐使を廃止するなど活躍しています。
醍醐天皇の治世時に右大臣に任命されました。
(左大臣は藤原時平)
しかし、道真に反感を持った貴族らの陰謀により失脚、左遷され太宰府へ送られました。
この時、宇多上皇は、我が子醍醐天皇のもとに面会に行き、とりなそうとしましたが、皇居の門前で藤原菅根(すがね)に拒まれたそうです。
東風(こち)吹かば
にほひおこせよ
梅の花
あるじなしとて
春を忘るな
詞書
「右大臣であった菅原道真が、太宰権帥(だざいのごんのそち)に任命され、太宰府へと左遷されなさったとき、家の梅の花をご覧になって詠んだ歌」
道真が亡くなった後、都では、飢饉や干ばつが起きたり、また、道真の左遷にかかわった人々が次々に亡くなるなど異常な事が相次いで起こりました。
909年、道真の左遷に関わったとされる藤原時平(藤原北家)が39歳で亡くなると、弟の藤原忠平が氏長者となりました。
朝廷では、道真の死後20年経ってから道真の無実を証明し、左遷を撤回する決議がなされ、道真は右大臣に復されました。
930年、朝議中の清涼殿が落雷を受け多くの死傷者がでたうえ、醍醐天皇も3ケ月後に崩御しました。
939年、平将門の乱が起き、平将門は菅原道真の生まれ変わりといわれたりもしました。
947年、京都に北野天満宮(天神様)が建てられ、道真は神として祀られました。
993年、一条天皇の時、道真に太政大臣の位が贈られ、一条天皇が北野天満宮に行幸しました。
道真は、今では学問の神様として信仰されています。
菅原道真の左遷に関わったとされ早世した藤原時平も、その弟で氏長者となり関白になった藤原忠平も藤原北家です。
忠平の歌は、百人一首26番にあります。
定家は、
行幸する宇多上皇と親しく同行する道真の歌を選んだのですね。
美しい紅葉を幣として、山の神様に旅の安全を願う、素敵な歌ですね。