(14)陸奥の しのぶもぢずり たれゆえに

百人一首14番歌

陸奥の(みちのくの)
しのぶもぢずり
たれゆえに
乱れそめにし
我ならなくに

by 河原左大臣(かわらのさだいじん)
嵯峨天皇の12番目の皇子
源融(みなもとのとおる)
822~895
平安時代初期

源融は、「源氏物語」の主人公「光源氏」のモデルの有力候補です。

源融は、京都の六条河原院(光源氏の邸宅、六条院のモデルのひとつ)に住み、宇治に別荘(「源氏物語、宇治十帖」のモデル)を営みました。

宇治の別荘は後に宇多天皇に渡り・・
源重信藤原道長藤原頼通に渡り、
1052年に、寺院としての平等院となりました。


また、京都・清凉寺は、もとは嵯峨天皇の仙洞「嵯峨院」の一部で、源融が別荘として賜ったそうです。


歌の内容:
陸奥(みちのく)の信夫(しのぶ)の里の名産の、しのぶもじずり(忍ぶ草をすりつけた乱れ模様)のように心が乱れはじめてしまったのは誰のせいでしょう、あなたのせいですよ。

もぢずり
文知摺り
=忍草(しのぶぐさ)の汁を、模様(デコボコ)のある石にかぶせた布に擦り付けて染めること。

「もちずり石」は、福島県の文知摺観音(もじずりかんのん)の境内にあるそうです。


百人一首のこの歌が詠まれた背景が、
「文知摺観音」のホームページの
「もちずり石と百人一首」に詳しく書いてあります。

都から巡察官として派遣された源融と、長者の娘・虎女が恋に落ちました。
融は、滞留期間が終わり都へと戻りました。

虎女は融を待ち続けたけれど、
虎女の元に届いたのは1通の歌のみでした。
「みちのくの忍ぶもちずり 誰ゆえに・・」と。
再会する事無く、虎女は亡くなりました。

虎女の願いは叶いませんでした。
手紙、歌を貰ったってね・・
会いには行けない待つばかりの身、可哀想な虎女です。

この歌は、「伊勢物語」の初段に引用され、主人公はこの歌(昔の人が詠んだ歌)にならって「春日野の若紫のすり衣 しのぶの乱れ限り知られず」と詠んでいます。

嵯峨天皇の皇子で、臣籍降下し、光源氏のモデルの有力候補という源融の歌でした。


Wikipediaより 真ん中辺りに源融

文知摺観音には松尾芭蕉正岡子規も訪れているそうです。

869年に、陸奥貞観地震が起こり、大津波により多くの人が亡くなりました。

その時、源融中納言(48歳)でした。

陸奥のしのぶもぢずりたれゆえに・・」と陸奥を歌に詠んでいますが、864年から869年まで陸奥按察使(あぜち、官職)にありました。

貞観地震の時は、藤原基経(当時34歳、中納言、のち摂政)が陸奥按察使だったようです。

貞観地震の事から、「末の松山」が陸奥の歌枕になったようです。

「末の松山」は、百人一首42番歌に詠われています。



同時期の
貞観6年(864年)~貞観8年(866年)にかけて、富士山が大規模な噴火をし、「貞観大噴火」といわれます。

江戸時代に起きた「宝永大噴火」とともに、記録に残る大噴火です。

貞観大噴火により、西湖、精進湖ができ、溶岩流の上に1100年の時を経て再生した森林地帯が青木ヶ原の樹海です。