百人一首16番歌
立ち別れ
いなばの山の峰に生(お)ふる
まつとし聞かば
今帰り来む
by 中納言行平
(在原行平 ありわらのゆきひら)
818~893
平城天皇(へいぜいてんのう)の孫
在原業平の兄
お別れですが、
因幡山の峰に生えている松のように、あなたが私の帰りを待っていると聞いたならば、すぐに帰って参ります。
(古今集・別離・365番歌)
在原行平は、855年に因幡(鳥取県)守として赴任しました。
赴任時(または赴任先で帰国時に)詠んだ歌だそうです。
別れの切なさが詠われてます。
切ない気持ちが通じるようにと、いなくなった人や動物が帰ってくるおまじないに使われたりするそうです。
行平は官吏(かんり・役人)として民政において活躍したそうです。
810年、薬子の変(くすこのへん=平城太上天皇の変=平城上皇VS嵯峨天皇)で平城上皇が負けて出家しました。
***
平城天皇は、弟の嵯峨天皇に譲位して平城上皇となりましたが、
(いろいろあって)
810年初め、嵯峨天皇と対立した平城上皇は、旧平城京に移り住み、また天皇になろうとしました。
平安京の嵯峨天皇は、蔵人(くろうど、天皇の機密文書を扱う)所を新設し、藤原冬嗣(北家)らを任命しました。
平安京と平城京の二つの朝廷ができましたが、1週間ほどの攻防戦の結果、平城上皇は敗北しました。
その時の参謀が、藤原薬子(平城天皇が皇太子の時の宮女の母)と薬子の兄・藤原仲成とされ「薬子の変」といわれてきましたが、今は「平城上皇の変」というようになりました。
平城上皇と嵯峨天皇は桓武天皇の息子なので、兄弟での争いでした。
***
事変により、
平城上皇は出家しました。
平城上皇の皇子である行平の父・阿保親王は、
826年に、子息の行平(9歳)・業平等に在原朝臣姓を賜与され臣籍降下させました。
Wikipedia より
藤原氏は2代目の藤原不比等の息子四人が、それぞれ開祖として家を興し、藤原四家といわれます。
南家、北家、式家、京家の四家で、政治の中心を担いましたが、737年の天平の疫病大流行、天然痘により相次いで病死し、権力は衰えました。
薬子(藤原薬子)は藤原式家生まれ。
父は長岡京造設の責任者・藤原種継です。
785年、父・藤原種継は長岡京造設中に暗殺され、
810年、兄の藤原仲成は薬子の変で征伐され、薬子も自害しました。
薬子の変の後、藤原式家は没落して、嵯峨天皇の信任を得た藤原北家が台頭しました。
小倉百人一首の選者・藤原定家は、その台頭した藤原北家の系流(藤原道長の来系)にあたります。
「立ち別れ・・」の歌を詠んだ在原行平は『薬子の変』を起こした平城天皇の孫。
一方、藤原定家は『薬子の変』後に活躍するようになった藤原北家の系流。
そして、定家が、和歌(百人一首)を選んで襖に描いたのは、息子の妻の親・宇都宮頼綱の別邸ですが、
宇都宮頼綱も先祖をたどると藤原北家に通じます。
694年~710年 藤原京
710年~784年 平城京
**737年 天然痘大流行(パンデミック)
784年~794年 長岡京
794年~1869(明治2)年 平安京
810年 薬子の変