百人一首98番歌
風そよぐ
ならの小川の
夕暮れは
みそぎぞ夏の
しるしなりける
「新勅撰集」夏・192
by 従二位家隆
藤原家隆
1158~1237
「新古今集」撰者のひとり
後鳥羽院時代の代表的な歌人
藤原俊成に歌を学ぶ
風が吹き、
楢の木の葉は風にそよぎ、
「ならの小川」の夕暮れは秋の気配がする
けれど、みそぎをみると、やはりまだ夏なのだなあ。
ならの小川=
京都、上賀茂神社の境内に流れる御手洗(みたらし)川
ブナ科の落葉樹、ナラ(楢)の木を掛けている
「夏のみそぎ」=「六月祓」=
神道において、旧暦6月晦日に行う「夏越しの祓(なごしのはらえ)」
川の水などで身を清め、1月から6月までの罪や穢れを払い落とすこと。
この歌の「みそぎ」は、旧暦6月晦日、現在の暦で8月上旬です。
上賀茂神社では、夏越大祓で「ならの小川」に人形(ひとがた)を流す夏越神事が、12月晦日には大祓が行われています。
6月と12月、半年ごとに、今でも地域・神社によって様々な晦日祓、大祓(おおはらえ)が行われています。
神社では、茅の輪をくぐったり、
家では、紙垂(しで)を飾った串を振って邪気を祓ったり、
紙の人形(ひとがた)に氏名と生年月日を書いて身体を撫で息を吹きかけて神社に返納したりします。
「新勅撰集」詞書に
『寛喜(かんぎ)元年 女御入内の屏風に』とあり、
1229年、藤原(九条)道家の娘・竴子が後堀河天皇の女御として入内した時の婚礼道具のひとつである屏風に描かれた絵を題に詠んだ歌。
四季12ヶ月の風物を、ひと月3題、計36枚の中の「六月祓」を詠んだもの。
藤原家隆は、定家と並び称される歌人として、御子左家と双璧をなしました。
後鳥羽院歌壇の中心メンバーで、後鳥羽院が承久の乱で隠岐に流された後も、題を賜って和歌の交流を絶やしませんでした。
後堀河天皇の中宮となった九条竴子の母は、96番歌・西園寺公経の娘。
1231年、四条天皇は誕生した年に皇太子となり、翌年、父天皇の譲位により即位しました。
外祖父・九条道家とその舅・西園寺公経(竴子の祖父)が朝廷の政務を行い、
四条天皇の養育は准母がなさいました。
1237年、98番歌・藤原家隆が逝去
1241年、97番歌・藤原定家が逝去
1242年、四条天皇が不慮の事故により12歳で崩御しました。
巷では、後鳥羽院の怨霊や慈円の祟りと噂されました。
四条天皇崩御後、次代の天皇が決まるまで11日間の空白期間が発生したのち、
土御門院の皇子・後嵯峨天皇が即位しました。
1244年、鎌倉幕府第5代将軍に九条(藤原)頼嗣が6歳で将軍に就任
同1244年、96番歌・西園寺公経が逝去
百人一首の登場人物が全員亡くなりました。
1252年、頼嗣(14歳)が将軍職を解任され、後嵯峨上皇の皇子宗尊親王が第6代将軍、皇族で初めての征夷大将軍となりました。
同年、九条道家が逝去
鎌倉幕府は、北条氏による執権政治が行われました。
1333年、後醍醐天皇が挙兵し、鎌倉幕府、北条氏が滅亡しました。